【文化財講座】平成22年度-幕末動乱の那珂湊

幕末動乱の那珂湊

元治甲子の乱戦闘絵図の写真

元治甲子の乱戦闘絵図(『写真集那珂湊市史』より)

平成22年5月27日(木曜日),市主催の文化財講座を開催しました。今回は『幕末動乱の那珂湊』というテーマで,幕末の動乱の渦に巻き込まれた那珂湊の歴史的痕跡を巡りました。

【行程】

  1. 幕末と明治の博物館(大洗町)
  2. 祝町の砲台跡(大洗町)
  3. 和田の砲台跡
  4. ふるさと懐古館
  5. 文武館跡
  6. い賓閣跡
  7. 華蔵院
  8. 那珂湊反射炉
  9. 水車場跡
  10. 首塚

幕末の水戸藩 斉昭の改革から元治甲子の乱まで

幕末の水戸藩では,窮乏する藩財政のなか藩政改革に消極的な門閥派と呼ばれる重臣たちが藩政の中枢を担っていました。このため第9代水戸藩主徳川斉昭はまず人事の刷新を手がけました。もともと重臣たちは8代斉脩の死後,家督相続問題で斉昭と対立関係にありました。彼らは11代将軍家斉の子を養子に迎えて幕府からの財政援助を考えていましたが,改革派の士族である藤田東湖らが幕府にはたらきかけるなどして,斉昭が第9代藩主となり,改革派の藤田東湖,会沢正志斎,武田耕雲斎ら下層士族からも人材を登用していきました。

人事を刷新し改革への機運が高まると,質素倹約を奨励し,検地や税制改革を行い,人材教育のための施設として藩校や郷校を建設するなど,斉昭は次々と改革を実施していくこととなります。斉昭の改革によって建てられた最初の郷校は,那珂湊の敬業館(後に文武館として改編される)でした。また,諸改革のなかでも,斉昭が最も力を入れたのが海防の問題でした。

い賓閣跡の写真

斉昭は大津や磯浜(北茨城市)を始め藩内の沿岸に台場と海防陣屋を建て,異国船に備えようとしており,なかでも重要な位置を占めていたのが水戸城につながる那珂川の河口にあたる那珂湊でした。この地は江戸時代廻船業で財をなした有力商人が輩出し大変な賑わいを見せた海運業の一大中継基地で,藩の財政にも大きな影響を与えていました。(当時那珂湊は蝦夷地からは海産物が,東北からは米が那珂湊まで運ばれ,その後,陸路江戸へと運ばれていました。)

このため那珂湊は藩内でも重要視されており,和田の台場と海防陣屋,反射炉と水車場所,そして実現はみませんでしたが,反射炉近くの那珂川沿に軍艦製造所建設の計画があがるなど,海防上重要な施設がいくつも造られ計画されていくこととなりました。

文武館跡の写真

水戸学の強力な攘夷思想のもと,斉昭は異国との戦争に備え追鳥狩と称した大規模な軍事演習を行い鉄砲を一斉に撃ちかけたりしましたが,このことに加えて銅製大砲鋳造のため領内寺院から鐘を強制的に集めて僧侶の反感を買い幕府へ讒訴されるなどして,弘化二年幕府から詰問を受け隠居謹慎を申し付けられ,一度は失脚します。しかし,嘉永六年ペリーの浦賀来航をきっかけとして,斉昭は幕政参与に任せられるなどして復権し,再び改革を実施していくこととなります。

華蔵院の梵鐘の写真

斉昭はあくまで攘夷にこだわっていましたが,安政四年に大老阿部正弘が亡くなり彦根藩主井伊直弼が大老に就任すると,幕府と水戸藩との関係は不穏なものとなっていきます。嘉永五年井伊直弼は独断で条約を結ぶと,斉昭はこれに激しく抗議し,将軍継嗣問題とも併せて実子の一ツ橋慶喜らとともに不時登城(おしかけ)して大老を面責したため,永蟄居を申し付けられました。これに抗議する改革派水戸藩士らが朝廷に働きかけ,やがて戊午の密勅が水戸藩に下されたのをきっかけに安政の大獄が始まり,水戸藩改革派は厳しく処断されました。これに抗議すべく水戸浪士は他藩浪士らと図りながら,井伊直弼暗殺を計画し実行する「桜田門外の変」をひきおこしていきました。

このころ水戸藩では戊午の密勅問題で,斉昭に従ってきた尊攘改革派と幕命に従う立場をとる門閥諸生派との間で争いが表面化してきました。

万延元年(1860)斉昭が亡くなると,再び門閥派が勢力をのばし,改革派(天狗派)と対立を深めながら元治元年の最大の内乱「元治甲子の乱」へと突き進んでいくこととなるのです。 (当日の資料より)

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更新日:2017年02月01日