ひたちなか市の文化財の紹介

ひたちなか市の文化財の紹介

ひたちなか市には,国・県・市指定の文化財が全部で66あります。ひたちなか市指定文化財一覧のページもご覧ください。

馬渡埴輪製作遺跡【国指定史跡】古墳時代後期 まわたりはにわせいさくいせき

馬渡埴輪製作遺跡の写真

古墳時代の5世紀末から6世紀に埴輪を製作していた工場の跡です。本郷川の小支流に面する台地上にあり,水や粘土,燃料など埴輪製作に必要な条件が整った場所であったと考えられます。昭和40年から実施された発掘調査の結果,窯跡19基,工房跡12基,粘土採掘坑25基以上のほか,溝跡も確認されています。また工人達の住居跡2基も一緒に確認されるなど,全国的にも類例の少ない遺跡です。現在は「馬渡はにわ公園」として整備されています。

出土埴輪

所在地:ひたちなか市馬渡字向野2881-3

虎塚古墳【国指定史跡】古墳時代後期 とらづかこふん

虎塚古墳の写真
壁画の写真

本郷川右岸の台地上に築かれた前方後円墳です。全長56.5m(メートル),後円部直径32.5m(メートル),高さ5.7m(メートル),前方部幅38.5m(メートル),高さ5.2m(メートル),前方部が発達した古墳時代後期古墳の特徴を持っています。昭和48年の発掘調査で,後円部に築かれた凝灰岩製の横穴式石室内に保存状態が良好な彩色壁画が発見されました。壁画は凝灰岩の表面に白色粘土を塗り,ベンガラ(酸化第二鉄)で連続三角文や環状文などの幾何学文と,靭(ゆぎ)・槍・楯・大刀など当時の武器や武具等の豊富な文様が描かれています。石室の内部からは成人男子の遺骸の一部と,副葬品の小大刀,刀子,鉄鏃などが出土しました。墳丘の特徴や出土遺物から,古墳時代終末期7世紀初め頃(約1400年前)に造られたと考えられます。昭和55年に公開保存施設が完成し,春と秋には石室壁画を一般公開しています。(虎塚古墳外観は,壁画公開にかかわらず常時無料で見学ができます。)

出土品

所在地:ひたちなか市中根字指渋(さしぶ)3494-1ほか

金砂山の大ヒイラギ【県指定天然記念物】 かなさやまのおおひいらぎ

市内最大級のヒイラギで,金砂神社境内に5株が生育しています。幹周囲は最大のもので2.6m(メートル),樹高は同じく12m(メートル)に達し,樹齢は400年とも600年ともいわれています。もとはフジが絡み合って伸び上がるような樹勢のものもありましたが,フジが枯死してしまいもとの姿はなく,樹勢の衰えの目立つものもあります。ヒイラギは暖地性のモクセイ科の常緑広葉樹で,市域でヒイラギがこれほどの巨樹に生育することはまれで,たいへん貴重です。

所在地:ひたちなか市堀口

十五郎穴(横穴墓群)【県指定史跡】古墳時代末期から奈良時代 じゅうごろうあな(よこあなぼぐん)

十五郎穴の写真

十五郎穴は,古墳時代末期から奈良時代に,本郷川右岸の大地の崖面に露出する凝灰岩を掘り込んで築かれた集団墓で,いくつかに分かれて分布しています。そのうちの館出(たてだし)支群が昭和15年3月に県の史跡に指定されています。昭和51から55年にかけての指渋(さしぶ)支群の調査では119基の横穴墓が確認されたほか,平成26年度までの調査で計272基の横穴墓が確認されており,総数で300基を超える東日本最大級の横穴墓群と考えられています。横穴墓からはこれまでに大刀などの鉄製品のほか,須恵器(すえき:土器)や勾玉(まがたま)などの副葬品,人骨など様々なものが出土しており,平成23年には,正倉院所蔵の刀子に類似の「帯執(おびとり)金具のある刀子」が発見されました。

館出支群第32号墓出土品

所在地:ひたちなか市中根字館出(たてだし)3490-1

平磯白亜紀層【県指定天然記念物】中生代白亜紀 ひらいそはくあきそう

平磯白亜紀層の写真

平磯町から磯崎町の海岸には,一様に北東の方向に35度から50度傾斜した鋸歯状の岩が連続しています。この地層からはアンモナイトの化石が発見されており,中生代白亜紀の地層であることが確認されました。このアンモナイトには異常巻きと呼ばれるものがあるため,今から7500万年前の白亜紀終末期の地層であると考えられています。また平成14年には,この地層から翼竜の肩甲骨の化石も発見され,ヒタチナカリュウと命名されました。

所在地:ひたちなか市平磯町新道東地先海岸

太刀(伝大村加卜)・白鞘【県指定工芸品】江戸時代前期 たち(でんおおむらかぼく)・しろさや

太刀(伝大村加卜)・白鞘の写真

大村加卜は,現在の静岡市出身の外科医師で,越後高田藩松平家に仕え,天和(てんな)元年(1681年)に松平家が改易(領地没収)された後,水戸徳川家に仕えました。外科用のメスを製作することから刀剣鍛錬の道に入りました。貞享(じょうきょう)2年(1685年),水戸藩第二代藩主徳川光圀公の命により,現在の常陸太田市の鏡徳寺で刀2振りを鍛えています。この刀は,豪壮な体裁に加えて,地・刃の出来が優れています。白鞘には,光圀の命によることや試し切りが6度に及んだことなどの由緒が書かれています。

所在地:ひたちなか市内

熏韋威胴丸鎧【県指定工芸品】室町時代末期 くすべかわおどしどうまるよろい

熏韋威胴丸鎧の写真

胴は前立挙(たてあげ)2段,長側4段,右合わせで腰部がすぼまります。草摺(くさずり)・袖金具も室町期のもので,大鍬形獅噛(おおくわがたしがみ)付の四方白兜,篭手(こて),佩盾(はいだて),臑当(すねあて),乗沓(のりぐつ),半首(はっふり)も伴います(篭手以下は近世の補足)。熏韋威は鎧の札(さね)をなめし皮で綴り,熏色にしたものをいいます。兜は水戸八幡宮のものと並ぶ逸品と評価されている貴重なものです。

所在地:ひたちなか市内

鎧櫃【県指定工芸品】桃山時代末期 よろいびつ

鎧櫃の写真

鎧を納めるケヤキ材でできた収納箱で,笈形(おいがた:背負う形)では県内唯一のものです。上部は丸みがあり,後ろに傾斜ぎみで,奥行きは浅くなっています。底は幅・奥行きがほぼ同じ長さです。前面は生地塗り,残りの3面は黒漆塗りで仕上げられています。

所在地:ひたちなか市内 

華蔵院の梵鐘【県指定工芸品】南北朝時代 けぞういんのぼんしょう

華蔵院の梵鐘の写真

鐘の表面の名文によると南北朝時代の暦応(れきおう)2年(1339年)に鋳造されたもので,高さ117cm(センチメートル),口径は69cm(センチメートル)で,県内最古の部類の梵鐘です。もとは常陸大宮市上檜沢の浄因寺のものでしたが,寛文(かんぶん)6年(1666年)に取り潰しになり,梵鐘は満福寺の所有になりました。その後,江戸時代の末に,水戸藩の大砲鋳造のために徴用され那珂湊に運ばれましたが,結局潰されずに残り,明治23年に華蔵院の所有になりました。

所在地:ひたちなか市栄町1-1-33(華蔵院)

後光厳天皇御消息【県指定書跡】南北朝時代 ごこうげんてんのうごしょうそく

後光厳天皇御消息の写真

南北朝時代の北朝第四代後光厳天皇(在位1352年~1371年)の宸筆(しんぴつ:天皇の直筆)の御消息で,宛先は不明です。縦32.4cm(センチメートル),横45.4cm(センチメートル)の紙本に墨書きされています。県内では数少ない南北朝期の宸筆です。内容は「一昨日大概申候き,自是計申候之條も旁難治,何と候へしとも不覚候,其所次第ハ粗令申候き,内々御意之趣も承候て,就其所存をも可申候,宗と相計候者に成候之條候。一定方々屈懇望候ぬと難治覚候,さ候はぬたに小諫議なとは以外不請けに候,無益候,比興々々,謹言 十月八日 (御花押)」となっており,具体的に判然としませんが,天皇の性格をうかがい知ることができます。

所在地:ひたちなか市内

瀬戸緑釉狛犬【県指定工芸品】室町時代後期 せとりょくゆうこまいぬ

瀬戸緑釉狛犬の写真

瀬戸製の焼き物の狛犬で,阿吽(あうん)一対ではなく,口を閉じた吽形の2体が保管されています。高さは20.8cm(センチメートル)と19.5cm(センチメートル)で,頭部は丸く,胴や足が比較的太い獅子型で重厚な作りです。頸部の前面には飾り帯を垂らし,刷毛目で”たてがみ”や胸毛が表現されています。緑釉は酸化焼成のために黄色味を帯びています。

所在地:ひたちなか市湊中央1-2-1(天満宮)

乳飲み児を抱く埴輪【県指定考古資料】古墳時代 ちのみごをだくはにわ

乳飲み児を抱く埴輪の写真

昭和31年,道路工事中に,当時大平1丁目にあった大平古墳群最大の前方後円墳から出土しました。顔は平面的にハート型に作られ,目は半月形に刳り抜かれ,周囲が赤く彩色されています。頭には島田髷が載り,櫛が表現されています。最大の特徴は,乳児を両手で抱きかかえる造形で,全国的に珍しいものです。

所蔵:埋蔵文化財調査センター

後野遺跡出土石器及び土器【県指定考古資料】旧石器時代終末期 うしろのいせきしゅつどせっきおよびどき

後野遺跡出土石器及び土器

後野遺跡(後野1丁目)は,本郷川水系の支谷を望む台地上に位置する遺跡で,昭和50年に発掘調査が行われ,A・B二地区より後期旧石器時代の遺物が層位的に出土しました。A地区は軟質ローム層の上部のパミス層から,大型の石斧と大型石刃から作られた掻器,彫器,削器,槍先形尖頭器からなる石器群に伴って,無文土器が発見されました。日本最古の土器のひとつとして,土器発生の研究に重要な資料となっています。B地区では,A地区より下層の軟質ローム層から,細石刃を主体として細石刃石核,彫器,削器等が出土しています。細石刃は,小さな石核から幅5mm(ミリメートル),長さ3~5cm(センチメートル)度の小さな石器を作るもので,石核の特徴が東北地方以北の石器文化との共通性を持っています。北方系石器文化の南限資料として重要です。

所蔵:埋蔵文化財調査センター

那珂湊反射炉跡 附那珂湊反射炉資料25点【県指定史跡】江戸時代末期 なかみなとはんしゃろあと つけたりなかみなとはんしゃろしりょう25てん

那珂湊反射炉の写真
反射炉絵図の写真

幕末になると那珂湊沖などに異国船が出没するようになり,水戸藩第九代藩主徳川斉昭公は国防の必要性を強く感じ,水戸藩では鉄製大砲の鋳造を計画しました。反射炉は,大砲鋳造に必要な大量の鉄を溶解する炉で,オランダの技術書や,先行して事業化した諸藩に学んで建設されました。反射炉の名称は火炎を炉体内部で反射させて熱を効率的に集める構造に由来します。安政元年(1854年)に着工,同2年と4年に1炉ずつ完成し,二十数門の大砲が鋳造されたといわれています。反射炉は,元治甲子(げんじかっし)の乱(1864年)で破壊されてしまいましたが,昭和12年,現在の復元模型が作られました。また,反射炉建設に力を発揮した飛田与七が残した資料も附として併せて指定を受けています。この他の反射炉関係資料としては「飛田家資料」が市指定歴史資料となっています。

所在地:ひたちなか市栄町1-10(あづまが丘公園)

酒列磯前神社の樹叢【県指定天然記念物】 さかつらいそさきじんじゃのじゅそう

酒列磯前神社の樹叢の写真

酒列磯前神社は元禄15年(1702年)に現在地に遷座しました。この地は椿山と呼ばれており,椿が密生していたといわれております。境内にはヤブツバキやタブノキ,スダジイ,ヒサカキ,ユヅリハ,モチなどの常緑広葉樹が卓越し,ハマギク,ラセイタソウ,シャリンバイなどの海岸生の植物も混生し,比較的自然度の高い樹叢を形成しています。

所在地:ひたちなか市磯崎町東の四4607-2(酒列磯前神社)

東中根遺跡群出土遺物【県指定考古資料】弥生時代後期 ひがしなかねいせきぐんしゅつどいぶつ

東中根遺跡群出土遺物の写真

東中根遺跡群は,中丸川と本郷川に挟まれた東中根台地に広がる大和田遺跡・清水遺跡・堂山遺跡・笠谷遺跡・野沢前遺跡などの弥生時代中期末から後期を中心とする遺跡群で,字ごとにいくつかに区分されています。昭和46年から行われた東中根大和田遺跡の発掘調査により弥生式土器や大量の炭化米が出土しました。これらの土器は,弥生時代後期前半の「東中根式土器」の基準となる標識資料です。壷(つぼ)・甕(かめ)・高杯(たかつき)などで構成され,口縁部は指により押圧された隆帯のある複合口縁となり,頸部には櫛描きの連弧文・山形文・平行線文が見られます。東中根堂山遺跡から出土した広口の壺形土器は,高さ30.5cm(センチメートル)のほぼ完全な形で,大きく外へ開いた口縁部には連弧文が,頸部は無文で,その下には平行線文・連弧文が描かれています。東北地方の影響を受けた土器で,弥生時代後期前半のものです。

所蔵:埋蔵文化財調査センター

夤賓閣跡【市指定史跡】江戸時代前期 いひんかくあと

夤賓閣跡の写真

水戸藩第二代藩主徳川光圀公が,日和山と呼ばれる台地に元禄11年(1698年)に建設した水戸藩の別邸です。夤賓閣の名称は中国の書『暁典』の「夤賓日出・」(つつしんで日の出をみちびく)をとり,接待所,迎賓館の意味があります。建物は,建坪が約300坪(1,000平米)で28もの部屋があり,地形を利用した高低二段の構造でした。光圀公や斉昭公など歴代藩主も訪れ,宴席や詩歌の会が催されました。建物は元治甲子の乱(1864年)で破壊されてしまい,その後湊公園として整備されました。

所在地:ひたちなか市湊中央1-1(湊公園)

比観亭跡【市指定史跡】江戸時代中期 ひかんていあと

比観亭跡の写真

寛政2年(1790年),水戸藩第六代藩主徳川治保公が酒列磯前神社の神主磯崎山城の屋敷を訪れ,その際,屋敷の東方の高台より眼前に広がる大海原と白砂青松の海辺を景勝の地として賞賛し,翌年,その地に東屋を建てさせ「比観亭」と名づけました。史館(彰考館)総裁の立原翠軒(たちはらすいけん)が揮毫した扁額を掲げたほか,藤田幽谷(ふじたゆうこく)が作成した比観亭碑文が残されています。

所在地:ひたちなか市磯崎町東の四4609

水車場跡【市指定史跡】江戸時代末期 すいしゃばあと

水車場跡の写真

中丸川の下流右岸,那珂川と合流する近くに所在します。水車場は,水車の力を利用し,反射炉で鋳造された円柱状の砲身を内刳(うちぐり)して穴を開け,仕上げを行っていた施設です。安政2年(1855年)に大工棟梁飛田与七の設計により着工し,翌年に完成しましたが,元治甲子の乱(1864年)で焼失してしまいました。

所在地:ひたちなか市柳沢下瀬1366-1

イワレンゲ【市指定天然記念物】

イワレンゲの写真

イワレンゲは,暖地の海岸に生育する植物で,本市は生育の北限とされています。バラ目ベンケイソウ科の多年草で,葉は薄い緑青色の先のとがった楕円形で,ロウ物質に覆われています。秋の頃,重なり合う葉の中心から茎を伸ばし,茎は一般に分岐し,枝先に白い小花をつけます。湊中央地内の崖の礫層に群落が見られましたが,近年は数が減少しています。

所在地:ひたちなか市湊中央

平磯の杖術【市指定無形文化財】江戸時代初期から ひらいそのじょうじゅつ

平磯の杖術の写真

杖術は,槍の名手佐々木哲斎徳久(ささきてつさいのりひさ)が創設し,江戸時代の明和年間(1764年~1771年)の頃,宗家六代目片岡宗吉影重(かたおかむねよしかげしげ)によって水戸地方に広められました。無比無敵流(むひむてきりゅう)は自衛の武術として継承され,現在十五代目根本憲一氏が流派の保存と伝承に努めています。型は表の形と中位五本,極意十本からなり,使用する杖(棒)は太さ約3cm(センチメートル),長さ165cm(センチメートル)(5尺5寸)の樫製です。槍術(そうじゅつ)を基本とする刺突と,正面からの打撃,下方からの刳り(えぐり)上げ,逆手突きなど杖の用法に元先がなく,無始無終の攻防を特徴とします。

所在地:ひたちなか市平磯遠原町31-2(無比無敵流杖術保存会)

観濤所【市指定名勝】江戸時代後期 かんとうじょ

観濤所の写真

天保4年(1833年)頃,水戸藩第九代藩主徳川斉昭公がこの地を訪れ,聞きしに勝る雄大な景観を賞賛し,藩内随一の波浪の見所として「観濤所」と命名し,自ら揮毫した碑を建てました。昭和10年に平磯町では,被覆堂を建て碑の保護を図りました。また明治時代に活躍した大町圭月の紀行文「水戸の山水」や,菊地幽芳の小説「乳姉妹」にも描写されています。(被覆堂は東日本大震災の際に倒壊したため,現在は碑の表面に保護処理を施してあります)

所在地:ひたちなか市磯崎町入道3602

姥のふところ【市指定名勝】江戸時代 うばのふところ

姥のふところの写真

往年,幅3.6m(メートル),高さ1.8m(メートル)ほどの洞窟のような人の入れる奇岩があり,その形から「姥のふところ」と呼ばれるようになり,潮湯治(しおとうじ)や磯遊びの場所として知られていました。しかし,この岩は天保年間の護岸工事の際に誤って取り除かれてしまったそうです。現在は海岸道路や海中プール等により往時の面影はありません。水戸藩第二代藩主徳川光圀公は「とりあげてみればやさしき子安貝乳房たつねよ姥の懐」と詠んだと伝えられており,碑が建てられています。

所在地:ひたちなか市殿山町1丁目地先海岸

水門帰帆【市指定名勝】江戸時代後期 みなとのきはん

水門帰帆の写真

水戸藩第九代藩主徳川斉昭公が,天保4年(1833年)に選定した水戸八景のひとつです。斉昭公自ら水戸八分と呼ばれる隷書体で揮毫(きごう)した碑が建てられています。碑は高さ約2m(メートル),幅約1.2m(メートル)で,常陸太田市と日立市にある真弓山で算出される大理石の寒水石が用いられています。帆の文字は古典文字が当てられています。もとの那珂川は大きく蛇行しこの碑近くに河口があり,出船入船を間近に見ることができました。太平洋はもちろん筑波山や日光連山も見ることができる風光明媚な地でした。
「雲のさかひしられぬ沖に真帆上げてみなとの方によするつり舟」 烈公(斉昭)

所在地:ひたちなか市和田町2丁目

湊御殿の松【市指定天然記念物】 みなとごてんのまつ

湊御殿の松の写真

湊公園には,樹齢300年以上の枝振りの見事な黒松が12株生育しています。この松は,水戸藩第二代藩主徳川光圀公が元禄11年(1698年)頃,夤賓閣整備に際して須磨明石(兵庫県明石市)から取り寄せたものといわれています。マツクイムシの被害等により名松が失われてしまった今日,非常に貴重な松といえます。「茨城の名木・巨樹100選」にも選ばれています。

所在地:ひたちなか市湊中央1-1(湊公園)

木琴と扁額【市指定工芸品】江戸時代 もっきんとへんがく

木琴の写真
扁額の写真
扁額の写真

湊中央1丁目(旧南水主町)の葵稲荷神社に保存されていたもので,木琴1点と扁額2点が指定されています。木琴は幅72cm(センチメートル),奥行き26cm(センチメートル),イヌエンジュ製の音板は17枚で,共鳴箱の中に音板と飾り板を収納することができます。水戸藩の船を管理していた御水主士(おかこし)たちは,水戸藩主の送迎や船の出帆時にこの木琴を演奏して,謡曲調の船歌を唄ったといわれています。扁額は水戸藩有船に掛けられていたもので,「君臣丸」(くんしんまる:軍艦)と「軽颺丸」(けいようまる:ようは風へんに易:遊覧船)という船名が彫られています。桜材製,黒塗りで文字が凹彫りされて金箔が貼られています。

所蔵:埋蔵文化財調査センター

首塚(忠勇戦死之墓)【市指定史跡】江戸時代末期 くびづか(ちゅうゆうせんしのはか)

首塚(忠勇戦死之墓)の写真

元治元年(1864年),水戸藩の内部抗争に端を発した尊皇攘夷派(天狗党)と左幕派(諸生党)の戦い「元治甲子の乱」は,茨城県下で繰り広げられ,天狗党は最後の拠点として那珂湊に集結しました。このため,8月から10月にかけての那珂湊は,天狗党と追討軍の激戦の場となりました。特に10月の部田野原一帯の戦いは激烈で,三度の大合戦が行われ,この時の追討軍の戦死者を集めて埋葬したのが首塚です。後の慶応2年(1866年)に,地元の十三奉行の人々が供養のため石碑を建てました。

所在地:ひたちなか市鶴代(つるしろ)2341-1(首塚史跡保存会)

文武館跡【市指定史跡】江戸時代末期 ぶんぶかんあと

文武館跡の写真

水戸藩第九代藩主徳川斉昭公は,天保6年(1835年)に医学・儒学・史学を主とする郷校「敬業館」(けいぎょうかん)を現在の八幡町に建設しました。その後,幕末の激動する時代に対応するため,安政4年(1857年),この敬業館に武館の機能(演武場,鉄砲射撃場)を加えて山ノ上町に移し「文武館」が設立されました。文武館は多くの書籍を保有し,藩士や商人などが学びました。小川・潮来とともに郷校三館と呼ばれ尊王攘夷運動の拠点となりましたが,元治甲子の乱(1864)で破壊されてしまいました。

所在地:ひたちなか市山ノ上(やまのうえ)町6535(那珂湊第一小学校)

懸仏【市指定工芸品】室町時代初期 かけぼとけ

懸仏の写真

青銅製で,直径10.1cm(センチメートル),厚さ2mm(ミリメートル),重さ150g(グラム)の円盤状の小型のものです。表面中央部に長さ3.2cm(センチメートル),幅1cm(センチメートル)の観世音菩薩座像(かんぜおんぼさつざぞう)が鋳出されています。上部には2個の小穴があり,紐で掛けられたものと思われます。像の右側には「白羽大明神御正躰」,左側には「応永十八年(1411年)十二月吉日」,像の下に「家次敬白」と刻まれています。津神社に古くよりあったようですが,その伝来等についてはよくわかっていません。

所在地:ひたちなか市平磯町

船甚句【市指定無形民俗文化財】明治時代から ふなじんく

船甚句の写真

明治時代に那珂湊の漁業が盛んになり,漁師が和船に乗り組み櫓(ろ)をこぐ時のこぎ唄として生まれました。「おせよおせおせ,九丁櫓でおせよ,こげば港が近くなる」というように,帰港の時など力いっぱい櫓をこぎながら唄われました。この船甚句は,宮城県一帯の遠島甚句と系統が同じものと考えられています。

所在地:ひたちなか市釈迦町(本場磯節保存会那珂湊支部)

寺前前方後円墳【市指定史跡】古墳時代中期 てらまえぜんぽうこうえんふん

寺前前方後円墳の写真

柳沢の台地突端部に地形を利用して築かれている前方後円墳です。墳丘長は41m(メートル),後円部直径26m(メートル),高さ4m(メートル),前方部幅11m(メートル),高さ2.3m(メートル)で,前方部が著しく小さいことから,5世紀初め頃に築造されたと考えられる市内最古の前方後円墳です。

所在地:ひたちなか市柳ケ丘12-1

多良崎城跡【市指定史跡】鎌倉時代末期から南北朝時代 たらざきじょうあと

多良崎城跡の写真

鎌倉時代初期に常陸大掾(ひたちだいじょう)氏一族の吉田里幹(多良崎三郎)が多良崎郷の地頭として土着しますが,その末裔が鎌倉時代末から南北朝時代頃に多良崎城を築いたと考えられています。本郭は,旧真崎浦に半島状に突き出した台地上の最も高い位置にあり,その下に二の郭・三の郭が築かれ,また台地を横切る空堀や土塁などの遺構も良好に残っています。これらの遺構は,自然の地形を巧みに利用して敵の侵入を防ぎ攻めにくいように築かれています。本郭からは常滑焼の大甕の破片が出土しています。茨城県緑地環境保全地域にも指定されています。

所在地:ひたちなか市足崎字館(たて)990

飯塚前古墳【市指定史跡】古墳時代後期 いいづかまえこふん

飯塚前古墳の写真

三反田古墳群の飯塚前支群の中で現存する唯一の古墳です。長辺30m(メートル),短辺20m(メートル)の長方墳で,現在の墳丘高は3m(メートル)ほどですが,当初はもっと高かったと推定されます。6世紀後半から7世紀初頭に築造されたと考えられる長方墳で,市内では唯一,県内でも数少ない墳形であり重要な古墳です。

所在地:ひたちなか市三反田字飯塚前3268

川子塚前方後円墳【市指定史跡】古墳時代中期 かごづかぜんぽうこうえんふん

川子塚前方後円墳の写真

現在,那珂台地に残存する古墳の中でも最大級の古墳です。墳丘長は80m(メートル)を超すと考えられる前方後円墳で,後円部直径と前方部幅がともに約41m(メートル),墳丘の高さは約9m(メートル)です。埋葬施設についての詳細は不明ですが,石造りと考えられています。墳丘表面には拭き石のほか埴輪が確認されており,この埴輪は馬渡埴輪製作遺跡から供給されていたことがわかっています。古墳の形態や埴輪の特徴から,5世紀後半に築かれたと考えられます。

所在地:ひたちなか市磯崎町川子塚4618-10

鉾の宮古墳群第2号墳出土埴輪一括【市指定考古資料】古墳時代後期 ほこのみやこふんぐんだい2ごうふんしゅつどはにわいっかつ

人物埴輪の写真
馬型埴輪の写真

昭和41年に墳丘の失われた古墳が発見され,緊急調査の結果,箱式石棺が発見され,大刀,鉄鏃(てつぞく),刀子,埴輪が出土しました。人物埴輪4点はいずれも頭部のみで,頬が朱色に塗布されたり,耳輪が表現されているなどの特徴があります。馬形埴輪は馬具を装着した飾馬で,ほぼ全貌を知ることができます。

所蔵:埋蔵文化財調査センター

虎塚古墳出土品一括【市指定考古資料】古墳時代後期 とらづかこふんしゅつどひんいっかつ

虎塚古墳出土品一括の写真

国指定史跡虎塚古墳の発掘調査で出土した埋葬に伴う資料です。石室内からは成人男子の遺骸1体と,小大刀,刀子,毛抜形鉄製品,やりがんな,鉄鏃(てつぞく)が副葬されていました。小大刀は全長38cm(センチメートル),身幅3.2cm(センチメートル),柄頭(つかがしら)は木質の作りで頭に銀製の紐通し環が付けられています。周堀や墓道からは鉄鉾(ほこ),鉄釧(くしろ),鉄鏃などが出土しており,これら鉄製品が一括で指定を受けています。この他に土師器や須恵器の破片が出土しています。

所蔵:埋蔵文化財調査センター

天満宮の祭礼【市指定無形民俗文化財】江戸時代初期から てんまんぐうのさいれい

天満宮の祭礼の写真

天満宮の祭礼がいつから行われてきたかは定かではありませんが,水戸藩第二代藩主徳川光圀公が,水戸東照宮にならって祭礼の式も新たにし,御神幸(ごじんこう)行列に神輿の供奉(ぐぶ)を定めたといわれています。祭りの形式は浜降(はまおり)祭で,神輿が天満宮を出発し,町中を通って鎮座石で祭事を行った後,帰路につきます。祭りの特徴は,浜降りの出輿に際して各種の風流物が供奉し,きわめて華やかに行われる点です。明治時代後期から「八朔祭」(はっさくまつり)と呼ばれるようになりました。

所在地:ひたちなか市湊中央1-2-1(天満宮祭礼保存会)

六町目獅子【市指定無形民俗文化財】江戸時代中期から ろくちょうめしし

六町目獅子の写真

江戸時代元禄年間(1688年~1703年)頃から天満宮祭礼の御神幸(ごじんこう)行列の露払いとして供奉(ぐぶ)してきたと伝えられています。獅子は,子・雌・雄の3体があり,いずれも棒の先に頭が取り付けられています。六町目獅子は,底なし屋台の中で笛と太鼓による振り囃子に合わせて勇壮かつ優美に,1体ずつ演舞する特徴があります。昭和55年12月には,「記録作成等の措置を講ずべき無形民俗文化財」として国の選択を受けています。

所在地:ひたちなか市東本町(六町目獅子保存会)

元町みろく【市指定無形民俗文化財】江戸時代中期から もとまちみろく

みろく人形の写真

江戸時代元禄年間(1688年~1703年)頃から天満宮祭礼の御神幸(ごじんこう)行列に供奉(ぐぶ)してきたと伝えられています。棒の先に取り付けられたみろく人形3体が,鉦(かね)や笛,太鼓の囃子に合わせて底なし屋台の中で1体ずつ踊る特長があります。白い顔の人形は住吉,青い顔は春日,赤い顔は鹿島の神といわれており,踊る姿は大変こっけいで面白いものです。昭和55年12月には,「記録作成等の措置を講ずべき無形民俗文化財」として国の選択を受けています。

所在地:ひたちなか市湊中央1丁目(元町みろく保存会)

素鵞神社の大ケヤキ【市指定天然記念物】 そがじんじゃのおおけやき

素鵞神社の大ケヤキの写真

御神木としてとして祀られています。幹周囲6m(メートル),樹高23m(メートル),樹齢は400年以上と推定されています。近年枯死した枝も見られ,樹勢の衰えが心配されます。ケヤキは扇状に広がる樹形が美しい,ニレ科の落葉広葉樹です。

所在地:ひたちなか市足崎

福島藩士の墓【市指定史跡】江戸時代末期 ふくしまはんしのはか

福島藩士の墓の写真

元治甲子の乱(1864年)の抗争が拡大していく中で,幕府は関東周辺の諸藩に天狗党追討の命を下し,幕命を受けた福島藩は遠征をし,元治元年10月9日・10日の熾烈を極めた部田野原の合戦で16名の戦死者を出しました。この戦死者は中根の堂山共同墓地に埋葬されており,墓碑には福島藩板倉家の臣,武士12名と中間4名の名前が刻まれています。なお,館山の浄光寺にも福島藩士の墓があります。

所在地:ひたちなか市中根字堂山1439(堂山共同墓地)

車長持【市指定有形民俗文化財】江戸時代前期 くるまながもち

車長持の写真

貞享(じょうきょう)3年(1686年)頃のもので,高さ110cm(センチメートル),長さ175cm(センチメートル),幅86cm(センチメートル)の総桐製です。上段が普通の長持形式で,下段は引出しになっています。さらに,その奥に隠し引出しを設け,工夫を凝らしています。また,運搬の利便を考えて,直径約30cm(センチメートル)の樫の車輪が付けられており,名前の由来にもなっています。嫁入りの際に,両側の金具に紅白の綱を付けて嫁入り先まで引いて行ったのでしょう。

所蔵:埋蔵文化財調査センター

長岡遺跡出土弥生式土器【市指定考古資料】弥生時代後期 ながおかいせきしゅつどやよいしきどき

長岡遺跡出土弥生式土器の写真

茨城町長岡に所在する長岡遺跡から出土した資料で,弥生時代後期の「長岡式土器」の基準となる標識資料です。複合口縁で,頸部は無文又は櫛描きによる連続山形文・波状文・直線文が見られます。甕形や壺形土器5点が指定されています。

所蔵:埋蔵文化財調査センター

馬渡埴輪製作遺跡出土埴輪【市指定考古資料】古墳時代後期 まわたりはにわせいさくいせきしゅつどはにわ

人物埴輪の写真
馬形埴輪の写真

国指定史跡馬渡埴輪製作遺跡から出土した埴輪で,人物埴輪2点と馬形埴輪1点が指定されています。人物埴輪は上半身と下半身を別々に製作した後,ソケット式に組み合わせるもので,埴輪製作技術の特徴を示す良好な資料です。馬形埴輪は,遺跡発見のきっかけともなった資料で,全長93cm(センチメートル),高さ73cm(センチメートル)の大型のものです。轡(くつわ)・馬鈴・鞍(くら)・杏葉(ぎょうよう)などの馬具が細かく表現された飾馬で,ほぼ完全な姿をとどめています。

所蔵:埋蔵文化財調査センター

正徳寺の門【市指定建造物】江戸時代後期 しょうとくじのもん

正徳寺の門の写真

もとは安政7年(1860年)2月に水戸藩の典医久保田宗仙の屋敷門として,水戸市三の丸の弘道館脇に建設されたものです。その後,水戸市松本町に移築され,昭和46年に久保田家と有縁者の供養のため,正徳寺に寄進されました。この門は棟門構造で,棟瓦までの高さが3.83m(メートル),柱間は1.82m(メートル)で瓦葺です。構造材の組み立てには釘を一切使用していない特徴があります。なお,この門は元治甲子の乱(1864年)の際,尊攘派の攻撃により右袖の一部が火災に遭っており,その痕跡を残しています。また,左主柱にはその際に付いたといわれている弾傷も残っており,幕末を伝える貴重な材料ともいえます。

所在地:ひたちなか市館山(たてやま)9002(正徳寺)

手づくり張り子の達磨と虎・兎【市指定無形文化財】江戸時代末期から てづくりはりこのだるまととら・うさぎ

達磨と虎・兎の写真

飯田家では,江戸時代末期頃より張り子の達磨などを製作してきました。創業者の喜七氏が,現在の石岡市の人形師から張り子作りの技術を習得し,達磨生産を始めました。現在は五代目の飯田隆司氏が技術を保持しています。達磨は顔が横に長く平たいために,胴が長く見える特徴があります。虎と兎は首振り型であり,特に張り子の兎は全国的にも珍しいものです。

所在地:ひたちなか市十三奉行1975

ヤンサマチ使用馬具【市指定有形民俗文化財】江戸時代初期 やんさまちしようばぐ

ヤンサマチ使用馬具の写真

ヤンサマチは,静神社(那珂市)の神輿の浜降り神事と,村松大神宮(東海村)及び酒列磯前神社に伝わる競馬の神事が統合され,これに旧那珂郡下33ヶ村(一説には48ヶ村)の鎮守社が参加して行われた壮大な春の大祭で,昭和4年を最後に中断しています。競馬は,村松大神宮下から阿字ヶ浦まで約9km(キロメートル)の浜辺を,6頭の馬が走るものです。この競馬に使用した鞍(くら)3点と轡(くつわ)3点が,ひたちなか市高野(こうや)に保存されていました。鞍の1つには葵の紋がついており,もう1点には元和(げんな)8年(1622年)の記銘があります。

所蔵:埋蔵文化財調査センター

オシンメサマ【市指定無形民俗文化財】

オシンメサマの写真

馬渡のオシンメサマは,東北地方に分布するオシラ神信仰と同系のもので,一般に家屋敷・家族の守護神として崇められてきました。毎月28日の縁日に,馬渡の沢田山不動尊に講中の婦人が集まって不動和讃(わさん)を唱えます。和讃が終わるとホウガンサマ(法眼様)と呼ばれる司祭者が,ヒノキとカヤで作られたお雛様に似た男女一対の人形(オシンメサマ)を両手に抱合せるようにして持ち,不動経文の唱えごとを数回繰り返すオシラアソビが催されます。

所在地:ひたちなか市馬渡字中宿(オシンメサマ保存会)

宇都宮藩士の墓【市指定史跡】江戸時代末期 うつのみやはんしのはか

宇都宮藩士の墓の写真

元治甲子の乱(1864年)の時,天狗党を鎮圧するために出兵した宇都宮藩戸田越前守の一隊が,9月6日,田彦村に陣を張りました。9日早朝,額田合戦の余勢を駆って田彦宿におもむいた天狗党と交戦となり,田彦宿はたちまち放火に包まれ灰燼に帰しました。宇都宮藩勢は惨敗し,藩士9人,役夫2人が犠牲となりました。田彦中卵塔共同墓地には,翌年の慶応元年(1865年)秋に遺族が一周忌に際して建てた2基の墓碑があります。

所在地:ひたちなか市田彦字林山(田彦中卵塔共同墓地)

三反田蜆塚貝塚出土土偶【市指定考古資料】縄文時代後期 みたんだしいづかかいづかしゅつどどぐう

三反田蜆塚貝塚出土土偶の写真

中丸川右岸の台地縁辺に所在する三反田蜆塚貝塚から出土した土偶2点が指定されています。1点は高さ10cm(センチメートル)の山形土偶で,両腕と左乳房を欠いていますが焼成がよく,縄文時代後期加曾利(かそり)B式期の貴重な資料です。もう1点は高さ16.3cm(センチメートル),顔は円形で目立つ鼻があり,胴部は細く1対の乳房が表現され,両脚が大きく開いた安定感のあるいわゆるハート形土偶で,縄文時代後期堀之内(ほりのうち)式期の貴重な資料です。

所蔵:埋蔵文化財調査センター

山上門【市指定建造物】江戸時代 さんじょうもん

山上門の写真

山上門は,もとは勅使奉迎(ちょくしほうげい)のため水戸藩江戸小石川邸(文京区後楽1丁目)の正面右側に設けられたもので,後に屋敷内の「山上」と呼ばれる場所に移築されたことが名称の由来であるといわれています。この門は,薬医門という形式で,本柱と控柱により支え,その上に切妻の屋根を乗せています。薬医門は城や寺院などの門として用いられています。幕末に水戸藩の果たした役割は大きく,佐久間象山,西郷隆盛,橋本佐内ら諸藩の志士たちもこの門をくぐり,小石川邸に出入りしたと伝えられています。昭和11年に名誉市民の深作貞治(ふかさくていじ)氏が,当時の陸軍省から山上門の払い下げを受け,当地に移築しました。小石川邸の建物のほとんどが失われた現在では,歴史的に重要な価値を持つといえます。

所在地:ひたちなか市栄町1-10(あづまが丘公園)

大沼経塚群出土経筒【市指定考古資料】室町時代後期 おおぬまきょうづかぐんしゅつどきょうつつ

大沼経塚群出土経筒の写真

平成3年,ひたちなか地区の区画整理事業に伴い,馬渡の大沼経塚群の2基の経塚の発掘調査が行われました。このうち,1辺約15m(メートル)の方形をした第2号経塚から,高さ10.8cm(センチメートル),口径4.4cm(センチメートル)の金銅製経筒が出土しました。経筒の胴部には「十羅刹女常州往道白 奉納法花真文六十六部 三十番神天文十年(1541)今月」という鏨(たがね)で刻まれた銘文があり,蓋(ふた)には重弁八葉の宝相華文(ほうそうかもん)が印刻されています。

所蔵:埋蔵文化財調査センター

湫尾神社蔵神鏡【市指定工芸品】江戸時代初期 ぬまおじんじゃぞうしんきょう

湫尾神社蔵神鏡の写真

最大径24.6cm(センチメートル)の八稜鏡で,鏡背には鳥居の図柄のほか,「延宝五年(1677年)八月吉日」の銘が鋳出されています。水戸藩第二代藩主徳川光圀公より奉納されたもので,元禄年間(1688年~1703年)の鎮守帳に記載され来歴も明らかです。保存状態も良好な貴重な資料です。

所在地:ひたちなか市武田

天満宮祭礼屋台囃子【市指定無形民俗文化財】明治時代から てんまんぐうさいれいやたいばやし

天満宮祭礼屋台囃子の写真

天満宮祭礼に供奉(ぐぶ)する屋台で演奏されるお囃子で,明治時代頃から伝承されてきました。場に合わせて8曲が使い分けられます。通常,和太鼓1,締太鼓3,三味線3,横笛1,鉦(しょう)1で演奏が行われ,三味線が加わるところに特徴があります。

所在地:ひたちなか市湊本町ほか(天満宮祭礼屋台囃子振興会)

足崎のイチョウ【市指定天然記念物】 たらざきのいちょう

足崎のイチョウの写真

市内最大のイチョウで,幹周囲6.45m(メートル),樹高28m(メートル),樹齢は500年と推定されています。樹勢は旺盛で枝張りも良い雄株のイチョウで,「茨城の名木・巨樹100選」にも選ばれています。イチョウはイチョウ科の落葉樹で,雌雄別株の裸子植物です。生命力があり姿も雄大なことから,「ひたちなか市の木」に選ばれています。

所在地:ひたちなか市足崎(個人の敷地内のため,無断で立ち入ることはご遠慮ください。)

高野のケヤキ【市指定天然記念物】 こうやのけやき

高野のケヤキの写真

市内最大のケヤキで,幹周囲6.35m(メートル),樹高29.5m(メートル),樹齢は400年から450年と推定されています。一部に枝枯れもありますが樹勢,枝張りともに良好です。ケヤキはニレ科の落葉広葉樹で,扇状に広がる樹形が美しく,材も硬く利用価値が高い木です。

所在地:ひたちなか市高野(個人の敷地内のため,無断で立ち入ることはご遠慮ください。)

湫尾神社のスダジイ【市指定天然記念物】 ぬまおじんじゃのすだじい

湫尾神社のスダジイの写真

市内最大のスダジイで,湫尾神社の参道左側にあり,幹周囲5.26m(メートル),樹高23m(メートル),樹齢は400年以上と推定されています。樹勢,枝張りともに良好です。シイ類は照葉樹林を代表するブナ科の常緑広葉樹で,スダジイとツブラジイがあり,太平洋側では福島県以南に自生しています。

所在地:ひたちなか市武田

湫尾神社のヒイラギ【市指定天然記念物】 ぬまおじんじゃのひいらぎ

湫尾神社のヒイラギの写真

市内最大級のヒイラギで,湫尾神社の参道右側にあり,幹周囲は主幹で1.5m(メートル),南の幹で1.4m(メートル),樹高14m(メートル),樹齢は250年と推定されています。主幹は直立していますが,南の幹は枝分かれしています。どちらの幹も一部に空洞がありますが,樹勢は良好です。ヒイラギは暖地性のモクセイ科の常緑広葉樹で,このような大木になるのは珍しいとされています。

所在地:ひたちなか市武田

和太鼓【市指定工芸品】江戸時代 わだいこ

和太鼓の写真

もとは天満宮の所有ですが,昭和47年の火災に遭い,釈迦町に払い下げられたものです。残念ながら由緒等は判然としませんが,天満宮へは歴代水戸藩主が参拝することも多かったといわれることから,そのような機会に奉納された可能性があります。修理の際に,胴内部に「両御丸 御太鼓師 御用 丸山三右衛門」の墨書が発見されました。両御丸は江戸城の本丸,二の丸を指すと考えられ,職人の格の高さを示すと思われます。江戸浅草新町(台東区今戸1丁目付近)には,代々,丸山三右衛門を名乗る職人がおり,この太鼓は,その手になるものと考えられる貴重な太鼓です。

所在地:ひたちなか市釈迦町(釈迦町青年会)

磯崎東古墳群出土遺物【市指定考古資料】古墳時代後期 いそざきひがしこふんぐんしゅつどいぶつ

珠文鏡の写真
磯崎東古墳群出土遺物(鉄鏃・刀子)の写真

平成元年に発掘調査が行われた磯崎東古墳群第2号墳から出土した遺物で,一号石室の珠文鏡(しゅもんきょう)1点・大刀1点・鉄鏃6点,二号石室の大刀1点・刀子1点・鉄鏃4点,三号石室の大刀1点・鉄鏃片が指定されています。珠文鏡は市内で唯一出土した古墳時代の鏡であり,また大刀をはじめ鉄製品は錆が少なく保存状態が良好で,いずれも貴重な資料です。

所蔵:埋蔵文化財調査センター

十五郎穴横穴群32号墓出土銅製金具方頭大刀【市指定考古資料】奈良時代 じゅうごろうあなよこあなぐん32ごうぼしゅつどどうせいかなぐほうとうたち

十五郎穴横穴群32号墓出土銅製金具方頭大刀の写真

昭和25年に発見された県指定史跡「十五郎穴(横穴墓群)」館出(たてだし)支群第32号墓から出土した銅製の方頭金具のつく大刀です。全長は推定で80cm(センチメートル),反りのない直刀です。付属する刀装具は正倉院御物の黒作大刀に似ており,全国的にみても貴重な資料です。

所蔵:埋蔵文化財調査センター

那珂湊反射炉飛田家資料【市指定歴史資料】大正時代 なかみなとはんしゃろとびたけしりょう

那珂湊反射炉飛田家資料の写真

那珂湊反射炉の建設に大きな貢献をした飛田与七の二代目が模写した那珂湊反射炉関係の図面です。水戸徳川家所有の資料を写したものと思われ,日本の近代化を研究するうえで貴重な資料です。

所蔵:埋蔵文化財調査センター

常陸湊村町内別明細絵図【市指定歴史資料】江戸時代後期 ひたちみなとむらちょうないべつめいさいえず

常陸湊村町内別明細絵図の写真

天保13年(1843年)に水戸藩が出した検地命令により制作された土地の明細絵図で,冊子の形式をしています。全70丁の絵図で構成され,命令に従って着色がなされているほか,寺社部分は特別に頁を設けて極彩色で描かれています。奥付には「絵図面認人若林村絵図師亘喜左衛門」と書かれています。検地絵図としては出色の出来であり,美術史的にみても貴重です。

所蔵:埋蔵文化財調査センター

三反田蜆塚貝塚土坑出土土偶【市指定考古資料】縄文時代後期 みたんだしいづかかいづかどこうしゅつどどぐう

三反田蜆塚貝塚土坑出土土偶の写真

この土偶は,平成11年の道路拡幅工事に伴う発掘調査により出土しました。1点は高さ16.5cm(センチメートル)で,円盤状の顔を持ち,胸部に乳房が表現されています。もう1点は高さ12.8cm(センチメートル)で,頭,両腕,両脚を欠いていますが,腹部にふくらみを持たせ妊娠を表現するなどの特徴があります。この2つの土偶は小規模な土坑内に並んで埋納されており,こうした状態で発見される例は少なく,土偶の使用例を示す好資料であるとともに,縄文時代の祭祀や習俗を知るうえで重要な資料です。

所蔵:埋蔵文化財調査センター

佐和秋葉神社の火祭り【市指定無形民俗文化財】 さわあきばじんじゃのひまつり

佐和秋葉神社の火祭りの写真

佐和大神宮境内に祀られている秋葉神社の夏の祭礼で,毎年8月17日に行われることから「十七日のお祭り」等とも呼ばれ,始まりは江戸時代後期の寛政年間(1789年~1800年)にまで遡るといわれています。秋葉神社の本社は静岡県浜松市の秋葉山本宮秋葉神社で,「火之迦具土大神」(ひのかぐつちのおおかみ)を祀り,火伏の神として崇められています。火祭りは,この火伏信仰と,災禍を払拭するため形代(かたしろ)の人形を焼く原始信仰が習合したものと考えられます。夕刻,大神宮拝殿において神事が執り行われた後,仕掛け花火に点火し,御仮屋内に安置された等身大の人形を焼き払います。ドンド焼き(ワーホイ)など火を使う民俗行事は少なくありませんが,人形を焼くという行為は非常に珍しく,貴重な例であるといえます。地元では,この祭礼を中止すると村に災厄があるといわれ,第二次世界大戦中でも線香花火を使って継続してきました。

所在地:ひたちなか市佐和1(佐和秋葉神社火祭り保存会)

旧土肥家住宅【市指定建造物】江戸時代前期から中期 きゅうどいけじゅうたく

旧土肥家住宅の写真

旧土肥家住宅は,江戸時代前期と中期に建てられた東日本で最も古い民家の一つです。もとは茨城県南部の稲敷市にあったもので,平成22年に国営ひたち海浜公園に移築復元されました。土肥家は新田開発のため,江戸時代前期に新利根村に移り住んだといわれ,代々農業を営んできた利根川流域の典型的な農家でした。建物は「直屋(すごや)」形式で主屋と隠居屋の2棟からなり,両方とも間口が7間,奥行きが4間半あります。隠居屋からは宝永3年(1706年)の墨書が発見され,また主屋は部材の年輪年代調査によって1600年代半ばの建築であることが判っています。このため,主屋が建てられた二世代あとに隠居屋が建てられたと考えられます。

所在地:ひたちなか市馬渡605-4(国営ひたち海浜公園内「みはらしの里」)

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更新日:2017年02月01日