ひたちなか市の水産業

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ページID1009109  更新日 2022年2月10日

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平磯漁港
旧平磯漁港

沿革

ひたちなか市は、茨城県太平洋岸の中央部に位置し、県都水戸市、那珂市、東海村及び大洗町に隣接し、東京都に10km(キロメートル)の距離にあり、北関東自動車道によって、栃木・群馬との文化、物流が進展しようとする拠点の地である。

本市は、遺跡や貝塚の存在からも明らかなように、原始、古代から人々が生活しており、中世の文和4年(1355年)の資料に初めて「那珂湊」と呼ばれ、他地域の港と区別していることから、当時既に港として機能していたことが窺い知れる。

那珂湊は、幕藩体制の確立した江戸時代には、東北地方の米穀や物産を江戸へ輸送する水上交通の中継港として栄え、多くの商人や豪商を輩出するなど水戸藩にとって経済上重要な存在であった。また、海防の面からも歴代水戸藩主は、砲台や異国船番所、御船蔵などを設置するとともに、軍艦まで配備し、9代斉昭(烈公)は、「反射炉」を建設して鉄の大砲を鋳造するなど海防の要衝地として重視していた。

しかし、明治維新以降は、鉄道等陸上交通の発達によって水上交通は衰微し、廻船により栄えた那珂湊の基幹産業は商業から水産業へと取って代わり、漁港建設や漁船の動力化等近代化も相俟って水産都市那珂湊を築きあげていったが、太平洋戦争時による大型漁船の徴用と魚の流通と価格が統制されたことによって、水産業は厳しい状況を余儀なくされた。

戦後は、食糧難の中で、水産業の振興は国の重要施策となり、全国的に漁船が建造され、急速冷凍技術や冷蔵庫が発達した。こうした中で本市の漁業は、木造船によるさんま棒受網を中心とした漁業から鉄鋼船導入による遠洋まぐろ漁業へと転換したものの、昭和48年のオイルショックによる漁業用燃油の高騰、昭和52年以降の諸外国200カイリ漁業水域規制及び魚価の低迷等により、本市の大型漁船漁業は衰退し、現在15トン以下の小型船による漁業がほとんどとなっている。

また、水産加工業は、カツオ、イワシ、サンマなどを中心とした前浜物水産加工を主体としていたが、昭和30年代の漁業不振による供給量の減少及び生産稼働率の拡大を図るため、アフリカからタコを輸入する等加工原料を輸入物へと移行し、特に煮だこ加工については全盛期には全国シェアの約3分の1を占めたほどである。

このページに関するお問い合わせ

水産課
〒311-1292 茨城県ひたちなか市和田町二丁目12番1号
代表電話:029-273-0111 内線:221、268
ファクス:029-263-7188
お問い合わせは専用フォームをご利用ください。